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| 連載 第1回 「なんくるないさ」
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2005/07/27 |
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「沖縄大好き!」
ハッキリ公言してしまうほど、東京で暮らしていた頃の私は沖縄にベタ惚れだった。
月に何回かは銀座の「わしたショップ」に通い、ちんすこうや亀センベイなどの菓子、泡盛、沖縄関連本、民謡系CDをごっそりと買いこむ。
遊び場だった六本木へと出かけても、「沖縄」というコトバに敏感に反応。人に聞いたり自分で探したりして、港区周辺の沖縄料理屋はほとんどチェックしていたと思う。話題の店があると聞けば、わざわざ遠くの街まで出かけて行った。
家にいても考えるのは沖縄のことばかり。一人で島酒(当時は石垣島の「八重泉」にはまっていた)を飲みながら、離島ののどかな風景を思い浮かべる。空想とも妄想とも区別がつかないイマジネーションの世界へとトリップし、感傷にひたる日々…。部屋に飾ったJTA美ら島カレンダーを眺めれば、すぐに募る思いが込みあげた。 |
沖縄病と呼ばれる人がいる。彼らは沖縄の魅力にとりつかれ、好きで好きで、沖縄のことばかり考えてしまう人たちだ。その多くは休みのたびに沖縄通いを繰り返す。重度の場合は週末に1泊するため、「沖縄の空気に触れたい」ただそれだけのために、高い航空券を躊躇なく買ってしまう。いつか移住したいと願い、また実行に移す人も少なくない。
私の場合、症状は完全にこの沖縄病だったが、何度も現地に足を運んでいたわけでなかった。実際移住に踏み切るまでに訪れた回数は、実はたったの3回。しかも最初の1回で、いつかこの島に住む! と決心していた。 |
初めて沖縄を訪れたのは2001年の正月、27歳のときである。2週間かけて沖縄本島とケラマ、八重山の島々を巡るプランだった。もともとスキューバーダイビングが趣味で、南の島のリゾート好き。それに横浜にあった沖縄料理屋「きじむなぁ」には二十歳頃から通っていた。ここには那覇出身のとても魅力的なママがいて、沖縄の話を聞くのが楽しくてしょうがなかった。灰谷健次郎さんの『太陽の子』や、岡本太郎さんの『沖縄文化論』も愛読していたため、沖縄にはまる土台はすでにあったのだろう。なんとなく、日本の中の外国というイメージを抱いていた。
冬の沖縄はシーズンオフで人も少ない。気ままな一人旅にはピッタリだった。すでに沖縄本島に移住している知人や、「きじむなぁ」の常連さんから紹介してもらった竹富島の人にも、現地で会う予定を立てていた。まさかこのとき会った2人が直接的に影響して、3年後に移住を果たすことになるとは…。そこには不思議な縁が、確かに存在していたように思う。 |
最初に会った知人は、これから沖縄で新規ビジネスを始めようとしていた。沖縄の大自然と共生し、自給自足ツアーなどを全国に発信していこうという大規模なビジネスプラン。彼は現在勤務している会社の、ボスにあたる人である。
ちょうどその1年前、私は青山にある出版社で、エリア情報誌の編集の仕事をしていた。活字を通して情報を発信していきたい、それをライフワークとして確立したい。自分の人生の方向性を意識しだした頃に、彼にインタビューする機会に恵まれた。
「場所はまだ決まってないけど、どこかの島(当時は無人島を想定)で自給自足的な暮らしをしたいと思ってるんだ。そこで生活をしながら、観光ツアーやショップを展開する。全国はもちろん、世界にも発信していくまったく新しいプロジェクト。おもしろそうだろ?」
原案ともいうべき内容は衝撃的だった。はじめは他人事として、感嘆の声をあげるだけ。あまりにも壮大すぎて、リアリティを伴ってなかったからかもしれない。
その構想を本当に実現するため、彼は沖縄という土地を選んだ。そして2000年12月に沖縄本島へ移住。今度はリアルに、新しいことが動き出す予感がした。
「沖縄の海のキレイさって、世界最高レベルだと思うんだよね。いろいろな島を見てきたけど、やるならここしかない。ここでやりたいって思ったんだ。プロジェクトが本格的に始動したら、人員も必要になる。なにか特別な技術があれば、手伝ってもらうこともあると思うよ」
再会したときに計らずもそう言われ、私は一気に興奮した。自分の技術=書いて表現すること、をここで活かせるかもしれない。話をするうちに、今まで考えたこともなかった「沖縄に住んで、働く」という夢が芽生えてきた。仕事があるなら、東京にこだわる必要がどこにある? 食べていけるんだったら、どこに住んだっていいじゃないか。どうせ住むなら温かく、豊かな自然に囲まれた南国の方がいいじゃないか!
求人の可能性。沖縄移住を意識した、最初で最大のモチベーションである。 |
次に会った竹富島の人はもうお孫さんもいる40代の海人(うみんちゅ=漁師)で、島では小さな居酒屋を経営していた。若い頃は本土で働いたこともあり、客観的かつ公平に、沖縄のことを理解している人だった。
島に滞在した数日間は、昼は一人で島内観光。夜は同じ民宿に泊まっている人たちと、連日その店に飲みに行った。沖縄の文化や歴史、島の暮らしなどを聞くうちに、都会では失われてしまった自然との「濃密な距離感」に興味を抱いた。
「コンドイビーチに行ったら、小さな石にお供えして、祈っている人がいたけど…。一体なにをしてたのかな?」
昼に不思議な光景を見かけたので、尋ねてみた。
「あぁ、それはニーラン石って言うさぁね。これは、海の向こうから豊作を運んでくるという神様が、船の艫網をかける石と言われてるよ。祈っていたのは神人役(かみんちゅやく=祭事を取りしきる女性)だったはず」
海の向こうにあると信じられる、神様が棲む島…。今まで見たことがないくらい透明で美しい海を目にし、独特の自然崇拝(アニミズム)に基づいた沖縄の思想を知った時、価値観がガラッと変わったのを今も鮮明に覚えている。
その後もう一度コンドイビーチに行き、改めてニーラン石と海の向こうを眺めてみた。誰もいない海岸。穏やかな風。太陽の光が、雲の隙間からスーッと1本の線を描く。海の向こうの神の島「ニライカナイ」があってもおかしくない気がした。こんなに素敵な場所は、他にない。短絡的だがそう思った。胸の鼓動が一気に高まり、恋愛にも似たドキドキ感が、沖縄に対する思いのすべてを物語っていた。
「美和ちゃんは、肩に力が入ってるみたいだね。もっと、自然にしてていいんだよ。気持ちに正直になっていいんだよ」
竹富島に滞在中、毎晩一緒に酒を飲み、いろいろなことを語り合ったオーナーが、優しい笑顔でそう言った。 |
ここで働くことを視野に入れた途端、沖縄は私にとって特別な存在になった。今振り返ると熱病に冒されたとしか考えられない。すべてに心を奪われ、冷静さを失い、もうメロメロと言える状態であった…。まるで恋に落ちてしまったように。周りの人からは呆れられるくらい、日を追うごとにますます沖縄の虜になっていった。
「なんくるないさ」という沖縄のコトバを知ったのは、最初の旅から帰ってすぐだったと思う。意味は「大丈夫、どうにかなるよ」。
2002年夏は1ヶ月半、2003年秋は約3週間かけて、再び沖縄を訪問。そして2004年1月に、いよいよ移住を敢行した。仕事は決まってなかったが、三十路を迎えたことが弾みになり、大きな一歩を踏み出すことにした。心の支えは、この「なんくるないさ」というコトバだった。 |
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| 金子美和 Kaneko
Miwa |
1973年10月22日生まれ。神奈川県出身。2004年1月末に沖縄本島へ移住(那覇市首里→中頭郡嘉手納町)。出版社勤務を経て、現在は衣食住の自給自足を目指す潟Aイランド・プロジェクトのスタッフとして活動中
Contact:
kaneko_miwa@yahoo.co.jp |
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| 街を歩けば、さまざまなタイプのシーサーに会える |
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| 原付バイク「リトル・カブ」を愛用。1年で1万キロ走行 |
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| オクラの葉は驚くほど大きい。間もなく実が食べられる |
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| 今宵も「シマー」(沖縄方言で泡盛のこと)をいただこう |
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| 家も職場も、海が目の前という最高のロケーション |
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